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黄檗宗の成り立ち

黄檗宗は、中国で起こった禅宗五家の一派である臨済宗を起源としています。

中国明末の時代に福建省福州の黄檗山萬福寺で住職を務め、熱心に禅の教えを広めていた隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師が開祖となって日本に広め、のちに臨済宗から独立して「黄檗宗」を名乗るようになりました。

隠元隆琦は貧しい家庭で育ちながらも、各地を修行して回り、臨済宗の教えを熱心に学びました。臨済宗黄檗山萬福寺の住職となってからは、弟子の指導にあたっていましたが、日本からのたびたびの招きを受け、江戸時代の承応3年(1654年)に長崎に来航しました。この時、中国から20人の弟子や職人を伴ってきたと言われています。

寛文元年(1661年)、後水尾法皇と将軍徳川家綱から京都宇治の土地を与えられ、中国の万福寺と同じ名を取った「黄檗山萬福寺」を建立し、「臨済正宗黄檗派」の開祖となりました。

この後、明治政府が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、1876年「黄檗宗」として正式に独立した、比較的新しい宗派と言えます。

黄檗宗01

黄檗宗の特徴

これは禅宗三派である臨済宗や曹洞宗にも共通している特徴ですが、禅宗では自己を内観・内省する「禅」を重んじるため、経を読むことに他の宗派ほど重きをおかないという特徴があります。隠元隆起禅師がのちに残した訓戒でも、「己躬下の事を究明するを務めとせよ」とある通り、自身の解決が重要であるという考えが一貫しています。

また、中国から渡った隠元隆起禅師が開祖となったこともあり、黄檗宗は他の禅宗に比べて中国形式のものが多いのも特徴です。

経は般若心教ですが、黄檗宗の経は唐音と言って、中国の発音で読まれます。「摩訶般若波羅蜜多心経」は日本語では「まかはんにゃはらみたしんぎょう…」と読みますが、黄檗宗では「ポゼポロミトシンキン…」となり(※黄檗宗公式サイトより抜粋)、儀式や作法も中国式で行います。

黄檗宗の読経の中には梵唄(ボンバイ)と呼ばれるものがありますが、リズムを刻みながら唄うように唱えるもので、一般的な読経とはかなりイメージの異なるものです。

黄檗宗02

黄檗宗の寺は中国明末形式

儀式や作法だけでなく、建築も中国式です。本山である黄檗山万福寺の建築は中国明朝形式で建てられており、仏具も中国から運んだものが使われています。これは隠元隆起とともに中国から日本に来航した職人たちが中心となって建築されたもので、その後も長きに渡って住職は中国の僧が務めたため、黄檗宗の寺院は中国式で建てられたものが多く見られます。

黄檗宗03

黄檗宗の精進料理

中国風精進料理である「普茶料理(ふちゃりょうり)」は日本で禅僧が食する質素な精進料理とは違って、見た目も美しく盛り付けられ、タンパク質を多く含む食材を使用するため栄養面でも優れた料理です。炒めや揚げと言った油を使った調理法も当時では珍しく、日本では馴染みのなかった油調理が広まるきっかけにもなりました。

臨済宗や曹洞宗が徐々に日本風に変化していったのに対し、黄檗宗はいまだ中国らしさを色濃く残しています。

開祖

隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師

本山

黄檗山萬福寺(京都府宇治市)。中国の本山と同じ名を付けています。

経典

般若心教

黄檗宗のお葬式

読経

経は日本語ではなく唐音で読まれ、複数の僧侶で梵唄(ボンバイ)が唱えられます。

焼香

額に押し頂きながら三回行います。

数珠

禅宗の数珠は108粒で、臨済宗と黄檗宗は親玉が二つであることが特徴です。

黄檗宗は禅宗の中でも比較的新しい宗派ですが、中国様式がふんだんに取り入れられているため、他の禅宗とは違った作法も多くあります。黄檗宗のお葬式については、菩提寺や葬儀社に確認して進めるのが間違いないでしょう。

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