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なぜ「小乗」なのか

小乗仏教とは、大乗仏教が一切衆生を唱えたのに対し、厳しい修行の末に悟りを開くことが仏の道と説いていることから、限られた人間しか救わないという考えを「小乗」という言葉で表現した、大乗仏教側からの見方です。

信じれば皆が悟りを開くという自分たちの乗り物は大きいが、そちらの乗り物は小さいではないかと表現した大乗仏教からの蔑称であり、部派が自ら名乗っている名称ではありません。

大乗仏教とは」でもご紹介している通り、仏教の開祖である釈迦牟尼が作った戒律を守り、厳しい修行を行う伝統的な部派が「小乗仏教」で、部派の側からこの名称を使うことはありません。

そのためこの表現が相応しくないと、今では小乗仏教ではなく「上座部仏教」という表現が主流になっています。「上座部」とは、厳しい戒律を守ろうとした長老派のことです。

小乗仏教の歴史

仏教の開祖である釈迦牟尼(本名はゴータマ・シッタールダ)は、現在はネパールの国土となっている「ルンビニー」という村で生まれました。ルンビニーは「釈迦族」という部族に統治されており、釈迦牟尼の父はその王だったとされています。王子として生まれ、何不自由なく育った釈迦牟尼ですが、29歳で出家します。「生・老・病・死」からは誰もが逃れられず、これを政治では解決できないと悟ったからだと言われています。

出家したあとは修行に励み、仏教の開祖となりました。35歳で悟りを開いてから、80歳で亡くなるまでの45年間の間、人々が苦しみから解放されるための知恵を広めて行ったとされています。

人の世の苦しみから完全に解き放たれることは難しく、私たちにできることはこの苦しみを受入れ、苦しみと感じずに生きることが、唯一苦しみを克服する方法だというのが釈迦牟尼の考え方です。

苦しみを苦しみと感じずに生きるためには修行を重ね、悟りを開くことが必要だという考えから、釈迦牟尼の弟子たちは厳しい修行に明け暮れました。また、釈迦牟尼の定めた戒律はその死後も受け継がれ、大変厳しいものとなっていきました。

 

伝統と戒律を重んじる「上座部」

釈迦牟尼の死後100年も経つと、その伝統的な戒律を守ろうとする長老たちによる保守派と、戒律には柔軟に対応すべきとする革新派に二分されるようになりました。また、限られた人間しか悟りを開けないという考え方に疑問を持つものが増えていったのです。

上座部の僧である当時の長老たちによって戒律はたいへん重んじられました。この上座部による保守派と、これに反発する革新派の対立が始まり、革新派によって生まれたのが「大乗仏教」です。

前者である小乗仏教派は伝統と戒律を重んじる立場を取ったこと、また出家して修行を重ねたものだけが悟りを開くと説いたことから、独善的であると大乗仏教側から揶揄されて「小乗」と表現されました。

しかし、大乗仏教側から小乗仏教と呼ばれる上座部仏教は、そもそもは釈迦牟尼の教えと戒律を厳格に守っていた伝統的な部派であるとも言えます。

 

小乗仏教の戒律

このように、もとは一つの宗派だった小乗仏教と大乗仏教ですが、その大きな違いは悟りを開くためには出家が必要かどうかについての考え方です。

小乗仏教は出家して修行を積まなければ悟りを開けないとしているため、戒律も大変厳しいものになっています。

出家した僧侶の戒律には男性には二百五十戒、女性には三百四十戒があり、具足戒と呼ばれます。一番重い戒律を破ると永久追放になります。

具足戒では人を殺めてはいけないのはもちろんのこと、全ての生あるものを殺すこと、いわゆる「殺生」を禁じており、飲酒も禁じています。また、男女の交わりも禁じています。それに比べれば、同じ仏教国でも多くが大乗仏教である日本では、戒律は比較的緩やかです。

このように、「小乗」とは大乗仏教の一派から表現されたもので、もともとは伝統的な仏教の教えを継ぐ系統であり、今も現存する最古の仏教として南アジア、東南アジアで信仰されています。

上座部仏教はスリランカを経てタイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどに伝搬され、人々は今も厳しい戒律を守って暮らしています。

上座部仏教の国であるミャンマーでは、今も成人男性は一定期間必ず出家する伝統が受け継がれています。日本から見るとタブーが多いと感じるかもしれませんが、それは伝達された部派の違いが影響しているからなのです。

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